2018年 01月 28日
思い出の東庄町、飯岡町 |
昨日、『天保水滸伝』に関する記事をアップしたところですが、いい機会ですから、ここで私が過去にしばしば訪れた『天保水滸伝』関連の地を皆さんに紹介しておこうかと思います。
まずは、東庄町の諏訪神社境内にある「天保水滸伝遺品館」ですが、ここには数多くの笹川繁蔵関連の遺品が展示されています。
※天保水滸伝遺品館(ヤフー画像より)
次は、諏訪神社近くの「延命寺」ですが、ここには笹川繁蔵、平手造酒、そして繁蔵一番の子分であった勢力富五郎の墓碑が建っています。
※延命寺境内(ヤフー画像より)
次は、延命寺の西方にある平手造酒が最期を遂げた場所ですが、ここには「大利根河原の決闘」で笹川方で唯一落命した平手造酒の石碑が建っています。
※「平手造酒之塚」碑(ヤフー画像より)
次は、笹川繁蔵が飯岡方の堺屋の与助ら三人によって闇討ちにあって命を落とした場所の「ビヤク橋」です。
橋と言っても、現在は普通のアスファルト道路になっていて当時の面影はありませんので、どこからどこまでが橋なのか区別がつかず、下を流れていた小川の「どんだら川」にも水はありません。
東庄町での最後の訪問地は、黒部川が利根川に合流する手前にある黒部川水門付近に建つ石碑のある場所ですが、この石碑は浪曲『天保水滸伝』の冒頭の一節を刻んだもので、浪花節宰相と言われたかの田中角栄氏(号は越山)の揮毫になるものです。
東庄町を離れて飯岡町に向かうと、そこは助五郎ゆかりの地となりますが、まずは「定慶寺」です。
※定慶寺(グーグルアースストリートビュー)
当寺には、笹川繁蔵の首塚の碑があるのですが、なぜ笹川ではなくこの地にかと言いますと、堺屋の与助ら三人によって闇討ちに遭った繁蔵はその場で首を落とされ、飯岡まで持ち運ばれていったからなのです。
三人に首を差し出された飯岡助五郎は「早まったことをしてくれた」と言ったそうですが、助五郎は十手持ちですから、あくまで正攻法で繁蔵を捕らえたかったようですね。
子分が先走って事件を起こしたため、役目柄、事がやくざ同士の私闘の末と疑われることを憚った助五郎が秘かにこの寺に埋葬したのだそうです。
定慶寺の近くには、飯岡助五郎の墓所である「光台寺」があります。
※光台寺(グーグルアースストリートビュー)
『天保水滸伝』ではすっかり悪者にされてしまった感のある助五郎ですが、何と言っても、地元飯岡町の発展に大いに貢献した名士ですから、お墓も立派なものです。
※飯岡助五郎の墓
東庄町、飯岡町へは過去何度も訪れているのですが、どうしても場所が判明しないところがあります。
それは、平手造酒が労咳(肺結核)の療養のための生活を送った場所のことで、桜井村というのは判っているのですが、そこのどこかは特定できていないのです。
むろん、『天保水滸伝』に出てくる妙円寺という尼寺はフィクションですから、そんな寺は存在しません。
子母澤寛は、それは「桜井寺」という小さな尼寺であるとし、平手は、寺の近くに住んでいた菅谷文軒という医者の世話になっていたとしています。
一方、「天保水滸伝遺品館」にある古写真では、その場所は菅谷義春さんという方のお宅であったとしていますね。
確かに、桜井には現在でも獣医師の菅谷さんというお宅が存在しているのですが、そこが果たして平手が療養生活を送った場所かどうかは定かではありません。
周辺一帯は菅谷姓が多いのかもしれませんしね。
by ikemoto04lp
| 2018-01-28 07:55
| 生活
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Comments(2)
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ikuohasegawa at 2018-01-28 15:55
元をただせば、利根川周辺の侠客の縄張り争いなのでしょうが、違うのかなあ、講談、浪曲、映画などによって脚色され、面白い、スペクタクルになったのでしょうね。
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ikemoto04lp at 2018-01-28 22:49
笹川繁蔵と飯岡助五郎は元々は仲が良かったんですよね。
ですが、繁蔵が次第に勢力を広げ、助五郎の縄張りにまで接触するようになったため、助五郎も看過できなくなったわけですが、それ以前に笹川方には乱暴者が多く、繁蔵をはじめ、子分の中にも関八州出役から手配書が回っている者が少なくなく、十手持ちの助五郎としては出張らざるを得なかったわけですね。
とは言うものの、これにしても縄張り争いの隠れ蓑とした節もありますがね。
それが、現在ではなぜ両者の評価が逆転しているのかと言えば、やはり繁蔵にしても平手造酒にしても悲劇のヒーロー的な最期を遂げているからなのでしょうね。
その点、助五郎は二足の草鞋という悪イメージが常につきまとい、そこそこ長生きもしていますからね。
ですが、繁蔵が次第に勢力を広げ、助五郎の縄張りにまで接触するようになったため、助五郎も看過できなくなったわけですが、それ以前に笹川方には乱暴者が多く、繁蔵をはじめ、子分の中にも関八州出役から手配書が回っている者が少なくなく、十手持ちの助五郎としては出張らざるを得なかったわけですね。
とは言うものの、これにしても縄張り争いの隠れ蓑とした節もありますがね。
それが、現在ではなぜ両者の評価が逆転しているのかと言えば、やはり繁蔵にしても平手造酒にしても悲劇のヒーロー的な最期を遂げているからなのでしょうね。
その点、助五郎は二足の草鞋という悪イメージが常につきまとい、そこそこ長生きもしていますからね。